現代限界芸術研究会 会報

現代限界芸術研究会の活動報告(twitter:@marginalartlab)

『限界芸術論』の話

・『限界芸術論』について

 もう亡くなってしまいましたが、鶴見俊輔という日本の哲学者がいました。吉見俊哉さんの『現代文化論』という本のなかでは「戦後日本の文化論の代表者」として名前が挙がっている人物です。この人と福田定良という哲学者との対談[1]のなかではじめて「限界芸術」という言葉が出たそうです。そしてこの着想が『限界芸術論』(「芸術の発展」)につながっていくのですが、これを書いた当時、鶴見さんは日米安保の抗議デモに参加していました。

 

「……長いあいだ、国会の脇の道路で暮らして、便所はプレスセンターのを使ってたんだから(笑)そこに執筆の便宜があるわけじゃないし、まあそのなかで『限界芸術論』を書いたんだよね。」(福住廉との対談「限界芸術限界対談」(『今日の限界芸術』)より)

 

 さて、そんななかで書いた『限界芸術論』の内容とはどのようなものだったのでしょう?

 

・限界芸術の理念

 「芸術の発展」(『限界芸術論』)は四つの章で構成されています。そのなかで、限界芸術とは何なのかが解説されているのが一章の「限界芸術の理念」です。鶴見さんは本文を次のようにはじめています。

 

「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。」(鶴見俊輔『限界芸術論』より)

 

 鶴見さんは「芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号である」と言います。そしてここでの「美的経験」を彼はさらに「直接価値的経験」と言い換えます。「直接価値的経験」と対比されるのが「間接価値的経験」です。すこし難しくなってきましたね。例を挙げて説明します。

 私たちがご飯を食べたいと思ったら、まずは労働をして食費を稼がなくてはなりません。しかし、労働という経験ではフツーはお腹がふくれませんよね。つまり労働というのは「ご飯を食べる」という最終目的に対して間接的にはたらきかける経験といえます。これが「間接価値的経験」です。そして「食事をする」というのは「それじしんにおいて価値ある経験」なので、これが「直接価値的経験」と呼ばれます。

 「美的経験」もまたこの「直接価値的経験」に含まれますが、鶴見さんはここで慎重さをみせます。生活すべてを覆う「直接価値的経験」のなかの「美的経験」の外延(その概念が通用する領域)を明確に設定するのです(なんと「食事」は「美的経験」にはふくまれないのです)。ここからの鶴見さんの議論は大変興味深いのですが、ここから先はぜひみなさんご自身で『限界芸術論』を読んで確かめてみてください。

 

・おまたせしました!「限界芸術」の定義

 さて、まずは該当箇所をザックリと抜き出してみることにします。

 

「今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」 (Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活の境界線にあたる作品を「限界芸術」と呼ぶことにして見よう。」(鶴見俊輔『限界芸術論』より)

 

 そして多くの人が「限界芸術」の定義として理解している次の文章が続きます。

 

「純粋芸術は、専門的芸術家によってつくられ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみをもつ専門的享受者をもつ。大衆芸術は、これもまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆をもつ。限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。」(鶴見俊輔『限界芸術論』より)

 

 ここでの専門的という単語は単に職業のみを示しているわけではないと思います。ここで想定されている専門を、私は「ジャンル」に近い概念として解釈しています。「画家」や「彫刻家」のように専門的なジャンルを高めていく縦方向の芸術ではなく、その裾野に広がる無限の荒野をイメージしていただくと「限界芸術」というものの性質がつかめてくるのではないでしょうか。

 

・限界芸術の研究、批評、創作

 ここまでは「限界芸術論」の一章の話題です。「限界芸術論」は四つの章で構成されており、以降の章は限界芸術の研究者、批評家、創作者として三人の人物の名前が挙げられています。限界芸術の研究者は柳田国男となっています。言わずと知れた民俗学の有名人ですね。そして限界芸術の批評家としては柳宗悦が挙げられています。最後に、限界芸術の作家として宮沢賢治の名前が挙げられています。宮沢賢治について書かれている四章では特に「農民芸術概論」にアクセントがついているように私は思いました。

 他にも海外の人間の名前がいくつか上がっていたので簡単に紹介します。まずは20世紀初頭のジョン・ラスキンウィリアム・モリスです。二人とも初期の社会主義者としての顔もありますが、芸術文化と深く関わる人物です(特にモリスの方の「アーツアンドクラフツ運動」は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか)。エドワード・カーペンターもイングランドの詩人で社会主義者です。日本のアナキスト無政府主義者)の石川三四郎と親交があり、石川の「土民生活」ではエドワードから「デモクラシイ」の意味を教わったということが書かれております。ハヴェロック・エリスについて、僕は勉強不足でよく知りませんが、『性の心理』という著書を書いているようです。アナンダ・クームラズワミはインド文化の研究で有名な方です。他にエリック・ギル、ハーバート・リードの名前も挙がっています。興味があれば彼らの著作など読んでみてはいかがでしょうか。

 

……『限界芸術論』、なんとなくイメージはつかめましたでしょうか。サークルの名前に入っている本ですので、ぜひ読んでみてください。また、近似した概念として「アウトサイダーアート」、「アールブリュット」などがあります。関心があれば調べてみてください。

 

[1] 『限界芸術論』の「著者による解説」では「限界芸術」という言葉をはじめて活字にしたのが長谷川幸延福田定良との対談である「文化と大衆のこころ」であり、着想自体は1955年の秋だと語られています。(鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』ちくま学芸文庫 pp445~446)

白いTシャツを汚す

白いTシャツを汚す Dirtying white shirts(ミクストメディア 2019)

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 2019年5月10日、信州大学の公認サークルである現代限界芸術研究会は、新入生歓迎の催しとして「白いTシャツを汚す」を行った。これは新入生からの提案によって生まれた。新品の白いシャツを汚すという行為に、ある種の罪悪感を抱くということから、我々が日常的に従っている「白いシャツを汚してはいけない」という暗黙の規範を可視化する試みであった。

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18:00ごろに集合し、発起人のTよりどのような意図で行うものなのかが語られた。その後、代表のAよりいくつかの参考文献が紹介され、汚れがときに意識的に、ときに無意識のうちに排除されてきたものであること、そして我々の行為が一種の「汚損」であることなどが語られた。

 

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終了予定の20:00には、全員が広場に集まっていた。一部が燃やされたシャツ、化粧品で汚されたシャツ、草や土で汚されたシャツ、その他判別不能の何かが付着したシャツなどが散見された。各々の汚れたシャツはロープに通し、一望できるようにした。暗い中ではあったが、それぞれの汚れが意図を持ってつけられていることが確認できた。そのような「ある時間の痕跡」としてのシャツが集積し展示されている様子は興味深いものだった。それから、参加者全員で「これは芸術なのか」「これをアートと呼べるか」といったことについて話し合った。「意図を持って行われているので芸術と呼べる」という意見や、「これが美術館のような場所に展示されていれば芸術であろう」という意見などが上がった。

 

 以下に、参加した一年生による感想を示す。

 

 

 

「Tによる感想」

白Tを汚すという世にも不思議な新歓を終え、思うのは一体あれはなんだったんだという事だ。発案者がこんな事を思うのはおかしいかもしれないが、いざ終えてみるとそんな感想ばかりが浮かぶ。「自由に」何かをしていいと言われた時に、何をしていいか分からず戸惑う人も少なくはない。今回の目的は、自由に汚すことの限界と向き合う事だった。そして汚す対象は、日常生活において汚してはいけないとされている物にした。そうすることで、汚す時に感じる罪悪感や躊躇いが増幅し、より一層汚すという行為に向き合えると思ったからだ。

実際にやってみると最初の一手こそ戸惑ったが、一度汚してしまえばなんてことはなかった。むしろ童心に返り、汚すという行為を楽しんでいた。そうして出来上がったものは、果たして芸術かと言われると首を傾げざるを得ない。特に限界を感じることも無く、ただ楽しんでしまったことは今回の反省点だ。しかし、9枚のTシャツが集まり縄に吊るされている光景は圧巻だった。美術館に展示されていたら、疑うことなく鑑賞するだろう。さて、芸術とは一体何だろうか。私はこの4年間でこの答えを探し続けよう。きっと答えは見つからないが、探索する過程で多くのものを得るだろう。

 

「Kによる感想」

本来、大切に扱う衣服を汚すことに抵抗感がありましたし、汚してるところを周囲にいる人に見られたくないっていう気持ちもありました。

 

ゲンゲンの先輩とTシャツを汚しに女鳥羽川に行きました。白いTシャツという神聖なものを、湿った土の上で強く踏みつけたときは戸惑いを感じました。まるで踏み絵をさせられているようで後ろめたかったです。でも、白いTシャツにくっきりと靴のあとがついていたのは気持ちよかったです。また、先輩がTシャツを燃やし始めたときは、これは入ってはいけない部類のサークルに入ってしまったのでは...と思いました笑。

 

一度Tシャツを汚してしまうと、汚すことへの抵抗感が薄くなりました。白いTシャツは、汚れてしまった白いTシャツになってしまったのですね。また、意味を持って汚そうとし始めると、衣服を汚しているというよりも、遊んでいるという感覚になりました。自分がしていることに意味があると思うと(信じ込むと)、人は行動することが出来るのですね。

 

白いTシャツを汚すことは、自分がやってはいけないと普段思っていることに対して、「どうしてやってはいけないと思うのだろう?」と考える一つのきっかけになりました。

 

「Iによる感想」

白いTシャツを汚す。自分で着る用に買ったものでは無いし、そういう企画なので汚すことに罪悪感は感じなかった。しかし汚すと言っても乾いたままの状態だと汚れが付きにくく、また自発的に汚すとなるとどうすればいいか分からなくなった。なんとなく鉄柱の赤錆を擦ってみたり、Uさんから借りたマニュキュアやその他化粧品を垂らしてみたりしたけど結局自分が何をしたいのかよく分からなかった。もっと考えて汚す必要があったと終わってから思った。汚す価値とはなんだろう。逆に衛生的理由以外で綺麗にする価値、理由意味とは?汚れは歴史、痕跡、記録なのではないか。消していいのか。う~ん…。もっと時間があれば意図的でなく偶発的、なるべく起こしたくない日常の中のアクシデントによりついてしまった汚れを付着させたかった。(例;カレーうどんの跳ねなど)生活の証を付けたかった。とにかく汚れとは綺麗にするとはどういうものか、また今回の企画で作り出された汚れTシャツは芸術なのか、などふだん考えることのあまり無いことを考える機会が得られていい体験になった。

 

 

「Uによる感想」

実は「新品の白いT シャツを汚さなければならない」という罪悪感よりも、「女子大生にもなって放課後に手ぶらにジャージ姿で近所をぶらついている私、これじゃあまるで小学生じゃん」という罪悪感(?)のほうが大きかったような気がした。

心なしか、知らないうちに身につけてきた、年相応(?)の言動、行動とかいうものを、T シャツを汚すことに必死になっている時はもう忘れているような気がして怖かったのを覚えている…

最終的に私は、看板や町の壁についた塵や、化粧品でT シャツを汚した(小学生ではないな)。塵とかそういう自然にあるものの汚れは個人的にインパクトが薄かったので、私は自分の部屋に戻って化粧品を取りに行った。背面に無数のリップマークもどき(手にそれっぽく見える形にリップを塗った)をつけたのだけど、イイカンジに仕上がったな…。リップマークもどきをつけるということは小学生っぽくはないけど、リップマークもどきを作るためにリップを手に塗りたくることは、小学校の図工の授業の時の私みたいだった。

今回は人為的に汚したが、機会があれば生活の中で意図せず汚れてしまうT シャツも作ってみたいと思った。

 

 

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 ちなみに、このTシャツの一部は、5月24日~26日まで、信州大学人文学部芸術コミュニケーション分野の企画「ビューロー」の一部として、松本のアートギャラリー、awai art centerに展示された。

「やんなよ」とこれから

 僕は団体を作った人なので、現代限界芸術研究会のことを色々な人に紹介する機会がある。そこでよく言われるのが「~やんなよ」や「~やんないの?」といった提案だ。そう言われると全部やりたくなるけど、まあ設立二年目の零細サークルなもんで、ねえ……(忖度を求める目)

 

 正直、色々やりたいことはある。元々、ケッコー真面目に「限界芸術」なるものの勉強会をしようとしたことがある。柳田国男柳宗悦宮沢賢治から話を広げ、菅江真澄和辻哲郎ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動や信州のクラフトフェア、トルストイ、あとは今和次郎とかマルセル・モース、昨日映画で見たヨーゼフ・ボイスや信州で自由大学運動を展開した土田杏村など「限界芸術」に少しでも関係しそうな人物や活動を、考えられるだけならべ、これらを担当ごとに振り分けて一年くらいかけて調べれば「限界芸術」の周辺のマップができるのでは?と思ったのだ。

 

 しかし、結局分かったことといえば「みんなそんなに『限界芸術論』に興味ない」ということだけだった。そりゃあ、そうだ。ふざけて遊んで集めたメンバーだもの。

 

 他にも流れた企画や提案は、実はそこそこある。昨年五月にやった「限界芸術祭」は本来第二回、第三回と続けていく意思があったが、まあご承知のとおりである。銀嶺祭でも、元々は「ゴドーを待ちながら」のゲリラ演劇をするつもりだったが、人数が足りずに流れた。おや、そういえば言語音楽祭の第三夜は……?

 

 まあ去年は「僕が卒業するまでになんとかしないと」と思っていたので、わりと焦っていたけど、後輩になんとか引き継げそうな現在はわりと楽観的に「そのうちできりゃいいわ」と思ってます。

 

 そのうちテキトーに遊んでるだけじゃ我慢できなくなった人たちが信州のかつての動きとか調べるようになったら、素敵だなと思う。この土地けっこう面白そうなものが眠っているので。

 

 美術史の中の我々の位置づけとかも団体設立のときには考えてたけど、今は「まあ、そのうちでいんじゃない?」とも思っている。

 

 ただ、知識は蓄積していかないとなので、僕の知っていることはこまめに後輩に共有していく所存。そう思って過去のレポートを晒したりしている(これ、けっこう恥ずかしい)。そろそろ定期活動もしないとね。

 

 まあ、無理しない程度にやっていこうかな。

言霊LINE

 現代限界芸術研究会はLINEというSNSアプリを用いて連絡を取り合っている。そして、我々のLINEでの発言は―恐ろしいことだが―今のところ、ほとんどが現実化している。つまり我々のLINEでの発言はある意味で祝詞であると同時に呪文なのであり、言霊信仰とも結びついている。

 

 普段は松本市内のアート関係の情報が流れてくるだけのLINEだが(いや、この情報のためだけでも入会の価値があると思うのだが)、ひとたび企画の萌芽が放たれるやいなや、それは瞬く間に実現していく。思いつきが現実化してしまう恐怖と興奮を体感して欲しい。

 

 特に新入生諸氏にはぜひとも思いつきを発言して、それが上級生たちによって暴力的に現実化するのを体験して欲しい。そして、いずれは新入生が言祝がれる神となって、浮遊する言語を現象に落とし込んで欲しい。

 

 最後はやや衒学的な言い回しになってしまったが、要するにゲンゲンに入ってLINEでテキトーなことを言ってほしい。それは現実化する可能性が高い……というか特に問題がなければすぐにでも形にするので。

 

 欲を言えばあと1~2グループくらい、言語→現象の動きができる集団がゲンゲン内部にいてくれると団体として活性化すると思うのだが……

 

 ともあれまずはゲンゲンに入って言霊の力を試してみよう!!

身体の小祭

現代限界芸術研究会による限界新勧

 

昨年はマツモト・ワイヤーマンでしたが、今年は身体を使ったワークショップをやろうと思います。

 

期間は来週一週間お昼休み。でも気分によって延長したり、中止したりします。ごめんね。

 

場所は生協前広場です。興味のある新入生諸氏はお昼ごはんを生協前で食べて待っててください。


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内容に関して。音楽もあるかもしれませんが、あくまでフォーカスは身体にあてています。格闘技や武術界隈でやるような身体操作の実験、あとは呼吸と歩行に関するワーク、集まった人の雰囲気によっては他者と接触する、重さを受け渡す、といったことも考えています。あとは思いつきで。


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とりあえず、ゲンゲンに興味ある人は頑張って話しかけてください。意外とそれが人生の変わる瞬間になるかもしれません。

反省文

冬の寒さも徐々に退き、春の足音が聞こえて参りましたが皆さまいかがお過ごしでしょうか。ちなみに私は元気です。

 

え~なんと四ヶ月もブログをサボっていたんですね……。

 

これもひとえに私の不徳の致すところでありまして、誠に遺憾に存じつつ、このままではイカン、と。こう思ってブログを書いてみたわけでありまして……

 

などというクソつまらない冗談はさておき、もうすぐ新歓なので現状報告と来年度の抱負をば。

 

まず、言語音楽祭の第一夜(Twitter)、第二夜(give me little more)に参加してくださった皆さま、ありがとうございました。まだ第三夜がありますので乞うご期待!

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言語音楽祭 第二夜(give me little more)にて

というわけで「じゃあ今は何やってんの?」ということですが、今年度の活動のアーカイブをしています。序文には代表の安藤が熱い宣言文(笑)を書いています。まあ、そんなのはいいんですよ、そんなのは。

 

このアーカイブには、なんと他の会員のみんなが寄稿してくれているんです!!

 

いやあ、そうです。僕の個人活動じゃなかったんですよ。これは本当にうれしい。

 

完成したら報告しますので、しばしお待ちを(4月の上旬にはなんとか……)

 

さて、最後に来年度入学される新入生の皆さま、合格おめでとうございます。この信州大学 現代限界芸術研究会は信州大学の公認サークルです。活動内容は基本、会員の自主的に任せています。会員それぞれが、限界芸術について考え、実験し、共有する場です。

 

活動を始めて一年くらいですが、Twitter界隈では意外と変な層に注目されており、奇天烈なゲージツカツドーをするにはもってこいの団体といえるでしょう。

 

想像してください、あなたが就職活動で

 

「学生時代、サークルや部活動には所属しましたか?」

 

と聞かれて

 

「現代限界芸術研究会に所属していました!」

 

と答える姿を。

 

インパクト抜群じゃないですか。

 

そんなわけでゲンゲンは主体的に行動できる人材募集中です。入会試験はいたって簡単。4月、生協前広場でなんか変なことをしている集団に声をかけるだけ。

 

簡単でしょ?

 

というわけで今後もゲンゲンをよろしくお願い致します。

 

※ブログもなるべく週一くらいで(最低でも月一で)更新します。すみませんでした。

ウニュスペリ限界演劇~マヤコフスキー『ミステリヤ・ブッフ』で遊ぶ会~

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革命詩人マヤコフスキーの戯曲『ミステリヤ・ブッフ』を使ったワークショップ(?)を行った。

このワークショップのルールはふたつ。

1.誰かが『ミステリヤ・ブッフ』を音読する。読むのに飽きたら誰か別の人に代わる。

2.読まない人は手を動かし続ける。現場にはスケッチブックと色鉛筆、折り紙、針金、太鼓、篠笛、キーボードなどが置いてあったりした。

これらのルールのもと、さてどうなるか、と始めたワークショップだったが

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……なぜかメチャクチャ盛り上がった。もうスゴく楽しかった。

後日、なぜあんなに盛り上がったのかを考えてみたところ、いくつかの仮説が生れた。

・参加者の関係性が丁度良かった(知り合い半分、他人半分)

マヤコフスキーの戯曲が良かった(流石はロシア・アヴァンギャルドの詩人マヤコフスキー。エネルギー感が違います)

・太鼓が楽しかった(子供っぽくてよい感想。一応大学生)

……など、用意した玩具が強くハートキャッチしたとこは確かにあるかもしれない。しかし、とても興味深い感想も出た。

・参加してもしなくてもいい場だったから楽しかった。

これは興味深い。参加の強度が下がるほど、ストレスから解放される、ということだろうか。むむ……

今回のマヤコフスキーワークショップは「参加」というテーマについて考えさせられる活動だった。

※この日、録音した音がかなり良かったので、いずれ何らかの形で公開するかもしれない。