現代限界芸術研究会 会報

現代限界芸術研究会の活動報告(twitter:@marginalartlab)

白いTシャツを汚す

白いTシャツを汚す Dirtying white shirts(ミクストメディア 2019)

f:id:marginalartlab:20190527153652j:plain

 2019年5月10日、信州大学の公認サークルである現代限界芸術研究会は、新入生歓迎の催しとして「白いTシャツを汚す」を行った。これは新入生からの提案によって生まれた。新品の白いシャツを汚すという行為に、ある種の罪悪感を抱くということから、我々が日常的に従っている「白いシャツを汚してはいけない」という暗黙の規範を可視化する試みであった。

f:id:marginalartlab:20190527153642j:plain

18:00ごろに集合し、発起人のTよりどのような意図で行うものなのかが語られた。その後、代表のAよりいくつかの参考文献が紹介され、汚れがときに意識的に、ときに無意識のうちに排除されてきたものであること、そして我々の行為が一種の「汚損」であることなどが語られた。

 

f:id:marginalartlab:20190527153632j:plain

 

終了予定の20:00には、全員が広場に集まっていた。一部が燃やされたシャツ、化粧品で汚されたシャツ、草や土で汚されたシャツ、その他判別不能の何かが付着したシャツなどが散見された。各々の汚れたシャツはロープに通し、一望できるようにした。暗い中ではあったが、それぞれの汚れが意図を持ってつけられていることが確認できた。そのような「ある時間の痕跡」としてのシャツが集積し展示されている様子は興味深いものだった。それから、参加者全員で「これは芸術なのか」「これをアートと呼べるか」といったことについて話し合った。「意図を持って行われているので芸術と呼べる」という意見や、「これが美術館のような場所に展示されていれば芸術であろう」という意見などが上がった。

 

 以下に、参加した一年生による感想を示す。

 

 

 

「Tによる感想」

白Tを汚すという世にも不思議な新歓を終え、思うのは一体あれはなんだったんだという事だ。発案者がこんな事を思うのはおかしいかもしれないが、いざ終えてみるとそんな感想ばかりが浮かぶ。「自由に」何かをしていいと言われた時に、何をしていいか分からず戸惑う人も少なくはない。今回の目的は、自由に汚すことの限界と向き合う事だった。そして汚す対象は、日常生活において汚してはいけないとされている物にした。そうすることで、汚す時に感じる罪悪感や躊躇いが増幅し、より一層汚すという行為に向き合えると思ったからだ。

実際にやってみると最初の一手こそ戸惑ったが、一度汚してしまえばなんてことはなかった。むしろ童心に返り、汚すという行為を楽しんでいた。そうして出来上がったものは、果たして芸術かと言われると首を傾げざるを得ない。特に限界を感じることも無く、ただ楽しんでしまったことは今回の反省点だ。しかし、9枚のTシャツが集まり縄に吊るされている光景は圧巻だった。美術館に展示されていたら、疑うことなく鑑賞するだろう。さて、芸術とは一体何だろうか。私はこの4年間でこの答えを探し続けよう。きっと答えは見つからないが、探索する過程で多くのものを得るだろう。

 

「Kによる感想」

本来、大切に扱う衣服を汚すことに抵抗感がありましたし、汚してるところを周囲にいる人に見られたくないっていう気持ちもありました。

 

ゲンゲンの先輩とTシャツを汚しに女鳥羽川に行きました。白いTシャツという神聖なものを、湿った土の上で強く踏みつけたときは戸惑いを感じました。まるで踏み絵をさせられているようで後ろめたかったです。でも、白いTシャツにくっきりと靴のあとがついていたのは気持ちよかったです。また、先輩がTシャツを燃やし始めたときは、これは入ってはいけない部類のサークルに入ってしまったのでは...と思いました笑。

 

一度Tシャツを汚してしまうと、汚すことへの抵抗感が薄くなりました。白いTシャツは、汚れてしまった白いTシャツになってしまったのですね。また、意味を持って汚そうとし始めると、衣服を汚しているというよりも、遊んでいるという感覚になりました。自分がしていることに意味があると思うと(信じ込むと)、人は行動することが出来るのですね。

 

白いTシャツを汚すことは、自分がやってはいけないと普段思っていることに対して、「どうしてやってはいけないと思うのだろう?」と考える一つのきっかけになりました。

 

「Iによる感想」

白いTシャツを汚す。自分で着る用に買ったものでは無いし、そういう企画なので汚すことに罪悪感は感じなかった。しかし汚すと言っても乾いたままの状態だと汚れが付きにくく、また自発的に汚すとなるとどうすればいいか分からなくなった。なんとなく鉄柱の赤錆を擦ってみたり、Uさんから借りたマニュキュアやその他化粧品を垂らしてみたりしたけど結局自分が何をしたいのかよく分からなかった。もっと考えて汚す必要があったと終わってから思った。汚す価値とはなんだろう。逆に衛生的理由以外で綺麗にする価値、理由意味とは?汚れは歴史、痕跡、記録なのではないか。消していいのか。う~ん…。もっと時間があれば意図的でなく偶発的、なるべく起こしたくない日常の中のアクシデントによりついてしまった汚れを付着させたかった。(例;カレーうどんの跳ねなど)生活の証を付けたかった。とにかく汚れとは綺麗にするとはどういうものか、また今回の企画で作り出された汚れTシャツは芸術なのか、などふだん考えることのあまり無いことを考える機会が得られていい体験になった。

 

 

「Uによる感想」

実は「新品の白いT シャツを汚さなければならない」という罪悪感よりも、「女子大生にもなって放課後に手ぶらにジャージ姿で近所をぶらついている私、これじゃあまるで小学生じゃん」という罪悪感(?)のほうが大きかったような気がした。

心なしか、知らないうちに身につけてきた、年相応(?)の言動、行動とかいうものを、T シャツを汚すことに必死になっている時はもう忘れているような気がして怖かったのを覚えている…

最終的に私は、看板や町の壁についた塵や、化粧品でT シャツを汚した(小学生ではないな)。塵とかそういう自然にあるものの汚れは個人的にインパクトが薄かったので、私は自分の部屋に戻って化粧品を取りに行った。背面に無数のリップマークもどき(手にそれっぽく見える形にリップを塗った)をつけたのだけど、イイカンジに仕上がったな…。リップマークもどきをつけるということは小学生っぽくはないけど、リップマークもどきを作るためにリップを手に塗りたくることは、小学校の図工の授業の時の私みたいだった。

今回は人為的に汚したが、機会があれば生活の中で意図せず汚れてしまうT シャツも作ってみたいと思った。

 

 

f:id:marginalartlab:20190527153548j:plain

 ちなみに、このTシャツの一部は、5月24日~26日まで、信州大学人文学部芸術コミュニケーション分野の企画「ビューロー」の一部として、松本のアートギャラリー、awai art centerに展示された。